Hakurokin’s 縁側生活

アルコール依存症/うつ病/リハビリブログ

熊楠による熊野案内/毒殺烈女「麗姫(りき)」

前回同様、粘菌特有の変態性、さらに貨幣特有の変態性とを参照。続き。

春秋時代の晋に献公(けんこう)という国王がいた。国王には三人の王子がおり、第三の皇子の名を申生(しんせい)といった(脚注によると「孝子伝」では長子)。母の名前は斉姜(せいきやう)といったが早くに死去した。そこで献公は討伐した麗戎(りじゅう)の娘・麗姫(りき)を後妻に据えた。ほどなく献公と麗姫(りき)との間に皇子が生まれた。名を奚斉(けいせい)といった。

麗姫(りき)は嫉妬心旺盛でなおかつ極めて驕慢でもあったようだ。類話が載る「太平記」ではさらに、目がくらむほどの美女でなおかつ言葉巧みな女性だったとある。

「ただ紅顔翠黛(こうがんすいたい)の眼を迷はすのみにあらず、また言(ことば)を巧(たく)み、色を令(よ)うして、意(こころ)を悦(よろこ)ばしめしかば、献公(けんこう)の寵愛(ちょうあい)甚(はなは)だしくして、別れし人の面影(おもかげ)、夢にも見えずなりにけり」(「太平記2・第十二巻・10・麗姫の事・P.279~280」岩波文庫

「紅顔翠黛(こうがんすいたい)」は「和漢朗詠集」からの引用。「翠黛(すいたい)」は緑色の眉のことを言い、当時の美女の条件とされていた。

「翠黛(すいたい)紅顔(こうがん)錦繡(きんしう)の粧(よそほ)ひ 泣くなく沙塞(ささい)を尋ねて家郷(かきやう)を出(い)づ」(新潮日本古典集成「和漢朗詠集・巻下・王昭君・六九九・江相公・P.699」新潮社)

また「言(ことば)を巧(たく)み、色を令(よ)う」は「論語」に見える。ただし孔子の言う文章の意味は異なる。

「子曰、巧言令色、鮮矣仁

(書き下し)子曰わく、巧言令色(こうげんれいしょく)、鮮(すく)ないかな仁(じん)。

(現代語訳)先生がいわれた。『弁舌さわやかに表情たっぷり。そんな人たちに、いかにほんとうの人間の乏しいことだろう』」(「論語・第一巻・第一・学而篇・三・P.11~12」中公文庫)

孔子は「巧言令色(こうげんれいしょく)」=「弁舌さわやかに表情たっぷり」な人物には誠意のない者がはなはだ多いと言っているわけであって、実際のところ必ずしもそうとばかりは限らず、少ないとはいえ例外もあると慎重な認識を示している。

ところが麗姫の場合、継子に当たる申生(しんせい)が憎くてたまらない。もし申生が死んでくれれば自分の実子・奚斉(けいせい)を太子に立てることができる。麗姫は常々その機会を伺っていた。そんな或る時、麗姫は申生を呼んでこう語った。「昨夜のことですが、わたし、夢を見たのです。そなたの亡くなった母上・斉姜様が死後、あの世で飢渇(けかつ)の苦悶にのたうち廻ってらっしゃっるのを。速やかに母上の墓へ行ってお酒を奉って供養してあげなければなりません」。

「我レ、昨日ノ夜、夢ニ見ル、汝ガ母、斉姜死(しに)テ後、飢渇(けかつ)ノ苦有リ。速(すみやか)ニ酒ヲ以テ彼(かの)墓ニ行(ゆき)テ可祭(まつるべ)シ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十三・P.272」岩波書店

「飢渇(けかつ)ノ苦」は仏教でいう「餓鬼道」を思わせる。「往生要集」の一節にこうある。

「飢渇身を焼き、周章(あわて)て水を求むるに、困(くるし)んで得ること能はず。長き髪面(かほ)を覆ひ、目見るところ無くして、河の辺に走り趣くに、若し人の河を渡るあつて、脚足の下より、遣落(おち)る余り水あれば、速かに疾く接し取つて、以て自ら活命す。或は人の水を掬(むす)んで、亡き父母に施すあらば、則ち少分を得て、命存立することを得。若し自ら水を取らんとすれば、水を守る諸の鬼、杖を以て撾(なぐ)り打つ」(「往生要集・厭離穢土・餓鬼道・P.51」岩波文庫

そう聞かされた申生は嗚咽を漏らしながら慌ただしく墓参の準備に取り掛かった。その隙を見て、麗姫は酒の中にこっそり毒を混入した。そしていう。「墓前での供養が済むと多分お酒の余りが残るでしょう。でもその分はすぐにそなたが口にしてはいけません。帰ってきて先に国王に奉るものです」。

「汝(なむ)ヂ、酒ヲ祭リ畢(をはり)テ後、余レラム酒ヲ、汝ヂ不呑(のま)ザラム前(さき)ニ返(かへり)テ、父ノ王ニ奉レ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十三・P.272」岩波書店

申生は麗姫の指示に従って亡き母の墓前で供養を済ませ、余った酒を持ち帰って父である国王に捧げようとした。国王がそれを口に運ぼうとしたその時、そばにいた麗姫がやおらそれを遮った。「外から持ち込まれた酒をたやすくお飲みになってはいけません。試しに誰か他の者に飲ませてみなくては」。

「外(ほか)ヨリ持(もて)来レリ物ヲバ輒(たやす)ク不呑(のま)ザレ。試(こころみ)ニ人ニ令呑(のまし)メム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十三・P.273」岩波書店

そこで「青衣(しやうえ)」(従者あるいは罪人)を呼びつけて飲ませてみたところ、青衣はばたりと即死してしまった。と、麗姫がいきなり喚き散らし始めた。「父は子を育てようとしている!子は父を殺そうとしている!見ましたか、今のは毒だということを!わたしはもしやと思い、国王が直接お飲みになるのを遮って引き留めましたが、ああ良かった!」。

「父ハ子ヲ養ハムトス。子ハ父ヲ殺(ころさむ)トス。此レ毒ナリ。我レ暫ク留メテ、王ニ此レヲ不令呑(のましめ)ズ、喜(よろこび)トス」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十三・P.273」岩波書店

申生は余りにも白々しく余りにもやかましい麗姫の言葉を聞くと、もうすぐさま自害しようとした。そこに一人の臣下が割って入ってこういった。「申生様、死んでしまえば罪を認めたに等しいのでは。それより生きて無実を証明なさるにこしたことはございません」。

「君死(しに)テ罪ニ入ラムヨリハ、不如(しか)ジ、生(いき)テ不誤(あやまた)ザル事ヲ顕(あら)ハセ」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十三・P.273」岩波書店

だが申生はいう。「この件について徹底的に調査すれば麗姫が無実などと万が一にもあるだろうか。それならただ父上のお顔を立てんがため、私が死ぬほかもはや方法はないと思う」。

「自(みづか)ラ此ノ事ヲ糺(ただ)サバ、麗姫必ズ罪(つ)ミ無カラムヤ。然レバ、只我レ、孝(けう)ノ為ニ命ヲ捨(すて)ム」(新日本古典文学体系「今昔物語集2・巻第九・第四十三・P.273」岩波書店

そう言って申生は即座に自害して果てた。

さて。麗姫はいつ毒を混入したか。ニーチェによれば、人間の「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる」、という。

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫

意識されるまでの《間》に何がどのように転移・圧縮・転倒され、あるいはどんな迂路を経由したか、その本当の過程は誰にもわからないとニーチェはいうのである。申生が母の追善供養のために墓参に出かける前、麗姫の手で毒は盛られた。それは間違いない。だが麗姫以外の誰もその現場を見ていないし知りもしない。従って、麗姫のすべての行動が明らかにされない限り、その全過程を言語化あるいは可視化することは不可能である。麗姫の証言次第で歪曲される部分がどうしても残ってしまう。また盛られた毒について「今昔物語」では何も書かれていないが、「太平記」では「鴆(ちん)と云ふ恐ろしき毒」、とされている。

「この胙の余りを献公に奉りしを、裹(つつ)みて置きたるに、麗姫、ひそかに鴆(ちん)と云ふ恐ろしき毒をぞ入れたりける」(「太平記2・第十二巻・10・麗姫の事・P.281」岩波文庫

なぜ「鴆毒(ちんどく)」なのか。それは「太平記」が「今昔物語」成立より約二五〇年後に成立したこともあるだろうけれども、その間、「鴆毒(ちんどく)」に関して恐怖を煽る面が増大していることを物語ってもいる。そもそも「史記列伝」や「韓非子」に載っていた情報。中国の南方に「鴆(ちん)・酖(ちん)」と呼ばれる鳥がいて、その鳥の羽から毒成分を抽出することができると。古くは権力闘争の毒殺に用いられた。「史記列伝」から引こう。

呂不韋はしだいに自分の権勢が削られてゆくだろうと察し、死刑の憂(う)き目にあうことを恐れ、やがて酖毒(ちんどく)をあおいで自殺した」(「呂不韋列伝・第二十五」『史記列伝2・P.129』岩波文庫

次に「韓非子」から。

「唯母為后、而子為王、則令無不行、禁無不止、男女之楽不滅於先君、而万乗不疑、此鴆毒扼昧之所以用也

(書き下し)唯(た)だ母は后と為りて子は王と為らば、則ち令は行なわれざる無く、禁は止(や)まざる無く、男女の楽しみは先君に減ぜず。而して万乗を擅(ほしい)ままにしいて疑わず。此れ鴆毒(ちんどく)扼(やく)昧(まい)の用いらるる所以なり。

(現代語訳)母が太后となり、子が君主となりさえすれば、命令はすべて行なわれ、禁令はすべて守られて、男女の間の楽しみごとも先君の生前よりも自由になり、大国を思いのままにあやつってはばかることもない。それこそ、君主に対して鴆毒(ちんどく)の暗殺や絞殺・首斬りが行なわれる理由である」(「韓非子1・備内・第十七・二・P.313~315」岩波文庫

ちなみに「鴆毒(ちんどく)」について「梅干」が効くという怪しげな都市伝説まで出来上がっていたらしい。北杜夫は述べている。

「漢の時代すでに、鴆(ちん)という鳥の羽をいれた毒酒を防ぐために梅干を用いたという記述はあるが、一体いつごろから梅干を食べるようになったかは詳(つまびら)かでない」(北杜夫「どくとるマンボウ航海記・マラッカ海峡からインド洋へ・P.56」新潮文庫

さらに「太平記」では「鴆毒(ちんどく)」の凄まじさを煽り立てる方向で次の文章が付け加えられている。

「庭前なる犬と鶏とに食はせて見給へば、鶏、犬ともに地に倒(たお)れて死す。献公、大きに驚いて、その余りを土に捨て給へば、捨つる所の土穿(う)げて、あたりの木草も枯れしぼむ」(「太平記2・第十二巻・10・麗姫の事・P.281」岩波文庫

伝説になってしまえばどこまでも話が膨らむ、あるいは逆に過小評価されるといった傾向が認められる。しかし「太平記」から約六二〇年後の一九九〇年代になって、中国の遥か南方に当たるニューギニア周辺を調査中、羽に毒成分を有する鳥類が実際に存在することが確認された。今や絶滅危惧種に指定されている。

ともかく、申生は自害した。自分で自分自身を周囲から排除した。排除することで貨幣化してしまった。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫

従って、実際のところ何があったかという過程はすべて覆い隠されてしまうのである。

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