ある恋愛が「肉体的損傷」(自己破壊)として刻印されるという経験。そのとき以後、恋愛の対象は<この私>にのみ固有の「肉体的損傷」(自己破壊)を根拠として生産されていくという事情。プルーストは恋愛が精神的関係という形を取る前に、常にすでに、ひたすら欲望する生産であることを知っていた。
アルベルチーヌに対する<私>の愛は必ずしも必然的だとは限らない。最初のバルベック滞在時の海辺で出会った一団の少女の中から次第に浮上してきた諸対象の一人に過ぎない。ジルベルトとアルベルチーヌとの違いはこの違いでもある。
一方にヴァントゥイユのソナタと接続されたジルベルトがいる。もう一方でヴァントゥイユの七重奏曲と接続されたアルベルチーヌがいる。両者は決して交わることがない。
「ヴァントゥイユのソナタを想い出してもその合奏曲を想いうかべることができなかったのと同じく、ジルベルトを手がかりにしても、アルベルチーヌを想いうかべて自分が愛する女だと想像することなどできなかったであろう」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.194」岩波文庫 二〇一七年)
ジルベルトはバルベックで出会った一団の少女とは何の関係もない。そもそもの出会いが違っている。ところが海辺で一団の少女の中にアルベルチーヌがいたことは<私>にとって限りない欲望の形態変化をもたらすことになった。
「ところである年齢以降になると、恋や愛人はわれわれの激しい不安から生まれるものとなり、われわれの過去が、つまりその過去を刻印された肉体的損傷が、われわれの未来を決定するらしい。とりわけアルベルチーヌにかんしては、私が愛するのはアルベルチーヌである必然性があるわけではないという事実は、たとえそれに似たさまざまな恋が存在しなかったとしても、アルベルチーヌと友人の娘たちにたいする私の恋の歴史のなかに書き記されていた。というのもこれは、ジルベルトにたいする恋のような単一の恋などではなく、何人もの娘のあいだに分裂して生じた恋だったからである。私がアルベルチーヌの友人の娘たちとすごすのを好んだのは、アルベルチーヌのせいであり、その娘たちにアルベルチーヌと似たところがあると思ったからだと考えることも可能である」(プルースト「失われた時を求めて12・第六篇・P.199」岩波文庫 二〇一七年)
後半箇所。「私がアルベルチーヌの友人の娘たちとすごすのを好んだのは、アルベルチーヌのせいであり、その娘たちにアルベルチーヌと似たところがあると思ったからだと考えることも可能である」。
「そう考えることも可能」なのはなぜなのか。
(1)「アンドレは、ロズモンドやジゼルと同じように、いやこのふたり以上にやはりアルベルチーヌの友だちであり、その生き方を共有し、その物腰をまねていて、最初に見かけた日には私にはふたりの区別がつかなかった。バラの何本もの茎のように海を背景に浮かびあがるのが主たるその魅力というべきこの娘たちのあいだには、私がまだ娘たちと面識がなく、そのちのだれが現れても例の小さな集団が近くにいると告げて私を感激させてくれたあの頃と変わりのない、不分明な状態が支配していた。今でも私はそのひとりのすがたを見かけただけで嬉しくなり、その歓びには、どれくらいの割合かは言えないまでも、ひとりの娘のあとにほかの娘たちにも会えるという楽しみが、たとえその日はほかの娘たちが現れなくても、その噂をしたり、私が浜辺に出かけたことがその娘たちに伝わるだろうと考えたりする楽しみが混じりあっていた」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.636」岩波文庫 二〇一二年)
(2)「最初の日に感じた魅力だけではなく、紛れもなく愛したいという願いが、だれと特定されないまま娘たちのあいだをさ迷っていた。それほどどの娘もごく自然にほかの娘と置き換わってしまうのだ」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.636」岩波文庫 二〇一二年)
バルベックで出会った一団の少女は最初から<一つの塊>として認識されていた。それが<私>にとっては徐々に個々別々の輪郭を獲得していったに過ぎない。したがってアルベルチーヌ、アンドレ、ジゼルたちは<私>の中では不意にいつでも溶け合い誰が誰だか区別不可能な<一つの性のうねり>へ立ち戻るということが起こる。
「そもそもアルベルチーヌといい、アンドレといい、その実態は何なのか?それを知るには、乙女たちよ、きみたちを固定しなければなるまい。つねにすがたを変えるきみたちを不断に待ち受けて生きるのをやめなくてはなるまい。もはやきみたちを愛してはいけないのだ。きみたちを固定するには、際限なくつねに戸惑わせるすがたであらわれるきみたちを知ろうとしないことが重要なのだ。乙女たちよ、渦のなかにつぎつぎと射す一条の光よ、その渦のなかできみたちがあらわれまいかと心をときめかせながら、われわれは光の速さに目がくらんできみたちのすがたをほとんど認めることができない。つねに千変万化してこちらの期待を超越する黄金の滴(しずく)よ、性的魅力に惹かれてきみたちのほうへ駆け寄ることさえしなければ、そんな速さを知らずにすませられるかもしれず、そうなればすべてが不動の相を帯びるだろう。乙女はあらわれるたびに前に見たすがたとはまるで似ていないので(そのすがたを認めたとたん、われわれがいだいていた想い出や思い定めた欲望は粉々にうち砕かれる)、われわれが乙女に期待する変わらぬ本性など、ただの絵空ごと、お題目にすぎなくなる」(プルースト「失われた時を求めて10・第五篇・一・P.139~140」岩波文庫 二〇一六年)
そしておそらく<私>はアルベルチーヌの死によってもたらされた人生最初ではない「喪の作業」において、にもかかわらず人生最初の「喪の作業」の本当の<意味>に直面することになる。ところがそれは、突き詰めて考えれば考えるほどかえって必然的因果関係を決定的に欠いたばらばらな諸断片のモザイクに過ぎないことに気づくほかない作業なのだ。