二〇二五年五月二十九日(木)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
ChatGPTって流行ってるみたいだよ。飼い主は三、四回使っただけで最近めっきりだね。どうしちゃったの?
司法の判例とか社会問題とかならまあまあ参考になるようなんだけど誰でも知ってる世界の文学とかで試しに質問してみたら思いも寄らない回答が出てきてから使ってないのさ。
思いも寄らないって?
例えば「ガルガンチュアとパンタグリュエル物語」って有名な小説があるんだけど確かめておきたい箇所があったんでちょっと聞いてみたんだ。そしたら聞いた内容にはなるほど触れてるんだけど随分おおざっぱでね、肝心のところはどうやらわからないみたいなのさ。わからないんならわからないって言ってくれれば時間の無駄が省けるだろ?でもわからないとは言わないでそこじゃないだろって箇所をだらだら紹介し始めたりしてね。面倒だから自分で本棚から文庫本だしてきて昔に傍線引いたところを探したほうが速かった。
そうなの?でも世間じゃグーグルに代わってChatGPT使う人のほうが増えてきつつあるらしいよ。
なんでもそうなんだけどね、特に機械の場合は使い方の基礎ってあるわけ。そこは飛ばしちゃいけないっていうか、飛ばしちゃったら何一つ使ってないどころか逆にまるで間違った「誤情報」を「正解」として覚え込んじゃう人が出てくるだろうし、その人にわるぎがなくても横着な人間だとかえって不信感を持たれる。
文学だからなのかな?
いや、文学でも特に古典についての取り込み方ってのが基本的に身についてないんじゃないかなって気がする。ChatGPTには。古典研究って世界中で無数にあるじゃん?だからあれもこれもになっちゃてるみたいなんだなあ、洗練されてない。結果的に的を絞り込めないとか的外れってのが大量に出力されてくる。
んで、相変わらず文庫本や雑誌にせっせとアンダーライン引いたりしてるわけ?後ろからこっそり見てると大正時代みたいだ。
そんなところかも知れないなあ、、、
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ラシャド・ベッカー。実験音楽の中でノイズをどう位置付けるかはただ単なる効果音というレベルではあり得ず多少なりともそれまでの保守的音楽への抵抗を示してきた。とはいえ始めから耳触りがよく明らかに商業的成功を目指して資本主義をよろこばせるノイズの効果音的利用もしばしば見られる傾向であり、それを嫌っていろんなノイズを工夫するアーティストも結構出てきた。ところが昨今はどんな実験音楽をも「そこそこ売れる」商品としてわかったような身ぶりで取り込み決して排除せず自身の大物ぶりをわざわざ見せつけるグローバル資本主義<公理系>が幅を効かせるようにまでなってきた。ではもうノイズは退屈な資本主義をちょっとばかり景気づけるアクセント的な小道具でしかないのかというとそうでもない。世界は広い。民族音楽のノイズ化やじわじわ溶けるリズムといった手法はコード化されつつ脱コード化してしまうという偶発性を不意に出現させる。それがいつどこで偶発するかしないかというところからして実はそもそも聴き手の好みや体調によりけりで、さらに複数のライヴ&デモでほんのちょっと音を歪めたり歪めなかったりしつつ資本がこっそり求めたがる「スマート」な形態から常にじっくりみっちり逸脱しつづける味わいは「再生回数がこんなにも少ない世界があるって知ってるかい、資本さん?」と資本回転の中でささやきながら資本主義<公理系>の監視管理体系を誘惑する実験音楽の余白を資本自身がますます作ってしまうという逆説を聴かせる。
