二〇二五年五月三十一日(土)。
早朝(午前五時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
朝食(午前八時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
昼食(午後一時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
夕食(午後六時)。ピュリナワン(成猫用)とヒルズ(腸内バイオーム)の混合適量。
飼い主の昔のノート?タマ見たいなあ。
いいけど、タマはずいぶん前から見慣れてるはずだよ。
どういうこと?
探してたらたまたま出てきたとかじゃなくてね。むしろ猫の動きに合わせるとほとんど目の前に見えてる時もあると思うなあ。というのはね、青空文庫からローディングして印刷した束をごそっと入れてあるコロがあるだろ?そのコロの上。分類に困る文庫本が並べてあるとこ。ごちゃごちゃした文庫本の並びとコロのあいだに大学ノートが真横に寝かせておいてある。昔の大学ノートの背表紙ってどれも始めから黒系が多いんだよ。文字通りの黒とか濃い茶とか濃紺とか。何冊か揃えてきちんと置いてるとちょっとした棚に見える。だからタマはこれまでしょっちゅう見てるのに見えてなかったってことが起こるわけ。
手品だ!
違うって。
ん~時々引っかかるなあ、人間のやること。そうそう、引っかかるで思い出した。きのうNHK短歌の話で木下龍也の選と飼い主がテレビ見てて思ってた選が重なってさ、なんだか引っかかるって言ってたけど、何が引っかかるの?
それね~、一席から三席まで順番まで同じってのは決してわるい話じゃない。そんなのよくあることなんだ。同人誌とかでも。けどさ、み~んな賛成ってまったく同じになっちゃうと何かそこに「正解」みたいなものが出現する。もっとも、人目を引いてお客さんが見て取ってくれてお店のイメージや居心地に親しみを感じてもらって、そこで売れれば何よりという商業コピーなら飼い主も会社員時代にやってたから企画なり商品なりが売れた時点でひとまず「正解」って話に落ち着くとおもう。短歌は違ってて「正解」があると思っちゃいけない。霧が奥の方へ引っ込んでやおら晴れわたるみたいにこれで「成った」とか「できた」という手応えかな、そこで留める。
むむ。そんなふうに言われても。ん~。よくわかんないや、てへへ。けど昔の歌に「玉」の歌がたくさんあるのを見つけるとタマとしては不思議とうれしくなっちゃうよね。なんでうれしくなるのかわかんないけど。まあでも大学ノートの束を真横に揃えてこっそり棚を出現させて見せかけるってのにはタマもすっかり騙されちゃってたね。まんまと引っかかってた。
こらこら誰も騙してないし引っかけてもないって。
黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ラシャド・ベッカー。実験音楽の中でノイズをどう位置付けるかはただ単なる効果音というレベルではあり得ず多少なりともそれまでの保守的音楽への抵抗を示してきた。とはいえ始めから耳触りがよく明らかに商業的成功を目指して資本主義をよろこばせるノイズの効果音的利用もしばしば見られる傾向であり、それを嫌っていろんなノイズを工夫するアーティストも結構出てきた。ところが昨今はどんな実験音楽をも「そこそこ売れる」商品としてわかったような身ぶりで取り込み決して排除せず自身の大物ぶりをわざわざ見せつけるグローバル資本主義<公理系>が幅を効かせるようにまでなってきた。ではもうノイズは退屈な資本主義をちょっとばかり景気づけるアクセント的な小道具でしかないのかというとそうでもない。世界は広い。民族音楽のノイズ化やじわじわ溶けるリズムといった手法はコード化されつつ脱コード化してしまうという偶発性を不意に出現させる。それがいつどこで偶発するかしないかというところからして実はそもそも聴き手の好みや体調によりけりで、さらに複数のライヴ&デモでほんのちょっと音を歪めたり歪めなかったりしつつ資本がこっそり求めたがる「スマート」な形態から常にじっくりみっちり逸脱しつづける味わいは「再生回数がこんなにも少ない世界があるって知ってるかい、資本さん?」と資本回転の中でささやきながら資本主義<公理系>の監視管理体系を誘惑する実験音楽の余白を資本自身がますます作ってしまうという逆説を聴かせる。
