白い午後(上)
バイセクシャルっていうのか---。麻亜梨がそう知ったのは高校二年生の終わり頃だ。ふだん女子生徒とばかり付き合っている自分はてっきりレズビアンに違いないと思っていた。ところがひとりの女子との恋愛が破綻すると次はまたもうひとりの女子へという流れには必ずしもならず、ふとした会話をきっかけに同級の男子生徒と付き合い始めることもある。ほかの人たちはどう呼んでいるのだろうという疑問は以前からあった。
大学は首都圏の国立大学へ進んだ。当初は関西の有名な女子大志望だったのだがなぜか国立へ引っかかり、学費が安いという親のもっともな口出しも考慮して国立へ進み下宿は東京二十三区内で物件を探した。区内のいちばん端っこに交通の便のいい物件が見つかった。細長いマンションのような建物で見た目にも学生か単身者向けだった。バブルはとっくの昔に終わっていたがコンビニが増え始めていてアルバイトもすぐ見つかった。一方冷戦終結で世界がひとつになったと思われたのも束の間、今度は湾岸戦争が始まったとテレビは報じていた。
それから四年。大学では勉強に明け暮れた。というのも入学とほぼ同時に思いのほか多くの男子学生に群がられたことに嫌悪を覚え、さらに期待した以上に女子学生があまりに少ないことへの失望があった。もっと地ならししてほしいと思う。けれど国立というのは世間で言われているより遥かにそうなのかという実感にため息が出た。卒業後の就職先は順調に決まりマンションも引っ越した。仕事はもともと嫌いじゃない。定時に退社できる会社だったのもよかった。週休二日制はきちんとしている。休みの日の麻亜梨はマンションに近い喫茶店でゆっくりくつろぐのが日課のようになっていた。
ある日のこと。夜更けを過ぎていたが麻亜梨の部屋の灯りは消えることがなかった。午前二時になるといつも隣家の犬が遠吠えを上げるのが聞こえる。麻亜梨はベッドの中でもう何度その遠吠えを耳にしたかしれなかった。その部屋には麻亜梨とその彼女ではなく彼がいた。名を代理といった。代理はどんな時でも灯りを消そうとしなかった。煌々と輝く光の下で麻亜梨と代理は上になり下になりすべてを忘れることのできる彼岸をめざした。汗だくになって果てたあと代理はようやく灯りを消す。すると麻亜梨は夢うつつの境へと静かに漂いおちていった。代理は代理の職場がある。夜明けには出勤しなくてはいけない。一方麻亜梨は土曜も休みだ。ふたりの休日はぴたりと合うことがない。だから麻亜梨は代理を選んだといえる。
まだ青白い薄明かりをたよりに代理は何もいわずに部屋を出ていく。そうしてひと月が過ぎたとき、麻亜梨は男に飽きている自分を見つけて苦笑した。
「代理、あなたはどうしていつも灯りをつけたままにしておくの?」
「嫌いかい?」
「どちらでもないわ」
「おれは好きだな。麻亜梨のすべてを見てしまいたい自分がいるよ」
「見てどうするの?」
「麻亜梨は見たくないのか?」
「どちらでもないわ」
「誰も見ていない部屋であからさまになっている男女ほど美しいものはないよ」
「あからさま、ね。昼間ならどうなの?」
「何だか興醒めな感じがしなくもない」
「あたしはそうは思わないわ」
「どうして。しらけないか?」
代理はいぶかしげな顔をして見せた。
「真っ昼間の性の営みの生々しさほど理性を欠いた魅力的なものもまたとないと思うわ」
「生々しさね。夜はものたりないというんだな」
「そうじゃなくて。夜か昼かどっちかなんて、言ってるほうがおかしな気がしてこない?仕事の打ち合わせと勘違いしてるみたいでどうかしてきそう」
「おれは夜しかこの部屋に来れない」
「知ってるわ」
「どうしろというんだ」
「どうしたい?」
「おれに飽きてきたというわけか」
「代理に飽きたとかそういう話じゃないの。誤解しないで。夜の電灯の下の交わりが文字通りただ単なる性交に過ぎないとしか思えないのよ。つまらなくなったとかそんなこと言ってないわ」
「ややこしい言い訳に聞こえる」
代理は棚からグラスと酒を取り出した。
「本当の話がややこしく聞こえる男になってしまったのね。それとも最初からそうだったの?」
隣家の庭から犬の遠吠えがきこえてきた。いまにも泣き出しそうな長く尾を引く情けない叫び声だ。麻亜梨はわれしらず笑いがこみ上げそうになる。
代理は黙ってグラスに口をつけた。夜明け近くに麻亜梨は眠りについた。目覚めると昼近い。代理はいまごろ仕事に追われているだろう。麻亜梨はベッドを出ると最近知り合った素敵な女性、梨奈へ電話をかけた。梨奈とのことを代理は知らない。それにしても―麻亜梨は代理の返事をまだ聞いていないと思った。
―あの日の午後ほど乾いていた季節を麻亜梨は知らない。
川沿いの喫茶店を見つけた麻亜梨は中へ入った。窓際の席がひとつ、麻亜梨のためにでもあるかのように空いていた。そこから見える河原は九月の埃っぽい光に照り付けられて、ところどころ干上がっていた。干涸びた部分は剥き出しで、それを覆っていた草々もまばらに乾いて変色し、黒くひび割れた無数の筋が砂漠のように残酷に見えた。いつもはまばゆく瑞々しい瀬音もその午後からはほとんど消失して跡形もない。アイスコーヒーが麻亜梨の喉をうるおしたが干涸びた河床を眺める彼女の目までうるおしてはくれなかった。
しばらくのあいだ持ってきた本に目を通していた麻亜梨は唐突に、札束の化石が風に吹かれてぼろぼろになり崩れ落ちていく光景を思い描いた。風化したそれは粉になって舞いあがり灰色に乾いてめくれ上がった河床へ舞い落ちる。そして再び風に煽られどこかへ飛ばされてしまい、もう見えなくなった。半分以上枯れてしまった川辺の草々が埃にまみれて虚ろに揺れているばかりだ。
店のステレオから音楽が聴こえてきた。
いつから流れていたのだろうと麻亜梨は振り返った。ところが、鳴り出したはずの音楽に気づいた様子の客は麻亜梨の他にひとりもいなかった。カウンターの中では店のマスターが何食わぬ顔で皿を洗っている。音楽はずっと前から聴こえていたのかもしれない、と彼女は思った。
麻亜梨は本を閉じ、店を出てスーパーで買い物を済ませようと思ったとき、ひとりの男らしき人影が河原から上がってくるのが見えた。河原から上がってくるものなど、いるはずもない。たぶん、川沿いの道を歩いてきただけに過ぎないのだろう。だが麻亜梨の目にはそう映った。確かにその人影は、干上がった川床に幾筋も走る黒いひび割れを足で踏み続けて河原から上がってきた。代理を見たそれが最初だ。麻亜梨はようやく待っていたオアシスが現われたと救われたような気持ちになり、ほっとひと息つきながら薄く笑った。
麻亜梨は代理とすこし話した。あまり面白くない話だと麻亜梨は思ったけれど、でも、話なら面白かろうがなかろうがどうでもよかった。面白い話が聞きたければ話の面白い相手をどこか外で探せばいい。麻亜梨が欲した代理は、干上がった河原から上がってきた乾ききっているはずの代理だった。